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林三従プロジェクト 1. ブレークスルーすること
柳沢秀之[岡山県立美術館]
 
札幌/吉崎元章
埼玉/梅津 元
東京・三鷹/荒木夏実
東京/南雄介
名古屋/拝戸雅彦
神戸/木ノ下智恵子
高松/毛利義嗣
郡山/木戸英行
岡山/柳沢秀行
福岡/川浪千鶴
 
 
林三従1
林三従2
林三従(はやし みより)が亡くなって1年。
 1933年生まれのこの女性は、生涯のほぼ全てを生まれ故郷の岡山県備前市に居を据え活動したアーティストである。
 1950年代から絵画制作を始め、坂田一男が組織した「A・G・O (アバンギャルドオカヤマ)」に出品し、続いては岡山市を活動の拠点にした若手前衛グループ「サロン・ド・モア」、さらに同会が発展的解消して1963年5月に結成された「岡山青年美術家集団」に加わる。50年代後半からはオブジェ作品を制作。64年からは東京での発表機会も増え、スルガ台画廊、内科画廊でBOX型の作品による個展を開催。また64年に事実上幕を閉じた読売アンデパンダン展以降を模索する篠原有司男らのオフミュージアムの動向にも関わり、椿近代画廊での「Big Fight」展に参加。篠原や吉村益信、三木富雄などと交友を持つこととなる。また草月会館でのオノヨーコのイベントに参加したのをきっかけに、その後も彼女との交友を続ける。さらに70年代に入ると作品はコンセプチャルな傾向を強めるとともに、パフォーマンスを実施し、演劇や音楽などの領域と次々とコラボレーションを果たしていく。そうしたなかで松沢宥、寺山修司、小杉武久など交友を広げる。また87年から97年までの毎年、備前市において大規模なアートイベントを組織した。
 こう書き留めると、林三従が今知られている以上にその存在を検証し顕彰せねばならないアーティストであることも明らかであろう。残念ながら、私自身は備前アートフェスティバルを垣間見た程度で、生前の林三従さんと面識をもつことはなかった。しかしずっと気になる存在であり、いつかお話をうかがいたいと思っているうちに逝去されてしまった。不覚であった。 ただ幸いにも岡山、そして東京に在住の心ある方々が、彼女の逝去直後に「林三従プロジェクト実行委員会」を立ち上げ、その作品や資料が散逸することを防ぎ、そしてその検証や提示の活動を早々に始められた。今のところ、その手際は完璧である。
 今回の企画「林三従プロジェクト 1.ブレークスルーすること」は対外的にその活動を示した第一弾。 なにぶんにもプロジェクト型の活動をしてきたアーティストだけに作品展とはいかないが、1950年代後半の版画や岡山青年美術家集団展のポスターに始まり、彼女の活動をおおまかに俯瞰できるだけの21件の資料が展示された。会期中には東京のみならず岡山からかけつけた観客も多かったようで、いかに林三従が人々に愛されていたかをうかがわせる。
 生前お会いできなかった遅れを少しでも埋めようと、私自身、ある程度時間をかけて林三従さんについて調べ始めたのは、この1年ほどである。
 
林三従3
今のところ、50年代の作品は皆無と言わねばならないほど所在を確認できず、わずかに「サロンド・モア」展の会場写真でその姿をしのぶしかない。60年代に入ってもBOX作品がいくつかあるだけで、岡山青年美術家集団展や、あるいは東京で発表された作品は、それがどのような作品であったのかすら、まるでわからない。ようやく70年代に入ると、いくつかの資料を確認することができ、そこからうかがえるだけでも、かなりセンセーショナルな活動を展開していたことがうかがえる。
 例えば1971年に岡山県総合文化センターで実施した『EVENT=we re going into…』では乗用車(なんとその当時に!)をクレーンで吊り上げて落下させるイベント作品を実施している。それをパネル化した作品や、車の天井に無邪気そうに女性達が乗っている写真や、落下後の車が燃えあがる写真が残されている。さらにいまだ断片でしかとらえられないが72年頃から実施された『GREEN REVOLUTION』プロジェクトでは、セスナ機から大根などの種をまいたり、種を蒔育の方法を書いた指示書を郵便で送付したりといった多角的なプロジェクトを実施している。いずれにせよ、この時点でこんなことを想定し、実行に移した女性が岡山にいただけでも驚きである。また彼女について、特記しておかなくてはならないことは、これも70年代のはじめから亡くなるまでの30年近く、人口もそうは多くない備前の街で主として子供向けの絵画教室を開いていたことである。そしてこの教室では実技指導というよりも、作品を描くことを通じて、各人の気持ちを解きほぐし、その可能性を引き出させるようなやりとりが行なわれていたようだ。それゆえここに通っていた生徒さん、そしてその父兄の多くが林先生を慕い、その1周忌など節目にあわせて教室の絵画展を自発的に計画、実施している。
 地方には、まだまだ表現者として、あるいは教育者として充分な評価を得ていない人材がたくさんいる。林三従のように、東京にも出て篠原、吉村、三木といったすでに名の知れた存在と活動を共にした者であっても。 そうした存在を地道に見つめ、検証しようとする活動には、ぜひ出きる限りの協力したいし、また自分自身がそうした活動の一助にでもなれればと思う。
 林三従プロジェクト実行委員会の今後の活動をぜひ応援してほしい。


学芸員レポート
学芸員の日常
 倉敷芸術科学大学が主催する「第一回全国高校生現代アートビエンナーレ」に審査員として呼ばれた。この年で審査員もと躊躇したが、こういう場に出てくる高校生がどんなレベルなのかの興味があってお引き受けしたが、正直に言って「意外にもうまい。驚いた」。
 作品は平面とだけ規制があるので、写真、グラフィックデザイン、そして絵画と混在していたが、日頃見ているこの近辺の大学生達の作品と比較して「これでは、あの大学の絵画専攻の学生は、一人も上位10名の入賞には入らんな」「あそこの一年生のデザインじゃ、落選する子もいるか」と口には出さず思っていた。そしたら倉敷芸術科学大学の先生たちからも「これならうちの2年生よりも描ける」「今からこんなに描けて、この子は今後どうするのだろう」と漏れてくる作品もあったので、すっかり納得。さて彼らの腕前のいかほどかは会場で見てもらうのが一番いいのだか、私にとって、改めて思い知らされたのは、やはり指導者(教員)の存在。
 スポーツ競技でも、やはり優秀な指導者がいる学校が強くなるし、いかに優秀なプレーヤーでも、高校生レベルでは指導者抜きではその到達点は頭打ちになってしまう。
 この展覧会でもまったく同じこと。とある学校では出てくる作品がみんな同じで誰が誰だかわからない。まあ課題制作した作品をまとめて出品されたのだろうと思っていると、別の学校では恣意的に見ていたわけではないが結局全員が落選してしまうところもある。一方で美術部としてまとめて応募しているようではなく、それぞれが個人的に出品しているのだが、ほとんどが入選のうえ、複数者が入賞を果たすところもあった。 相応の技術的な共通の基礎もあろうが、美術表現までもここまで指導者に左右されようとは。
中山巍と1920年代のパリ展 巡回日程
第一回全国高校生現代アートビエンナーレ

[やなぎさわ ひでゆき]

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