失敗を乗り越えて成功を掴んだ研究者

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大日本印刷株式会社(DNP)の液晶関連研究の第一人者のひとり、黒田剛志は、2002年の入社後に配属された研究チームが5年後に解散するという試練を経験している。

黒田は、液晶テレビ向け位相差フィルムの生産に使う「液晶コーティング」の技術を開発するチームの一員だった。位相差フィルムとは、ディスプレイの視野角を広げ、斜め横の角度からでも画像が鮮明に見えるようにするものだ。しかし、同じ性能を持つ、より安価な「延伸フィルム」の台頭によってDNP製品の価格競争力が失われ、市場からの撤退が決まったのだ。

社会人として初めて取り組んだテーマだっただけに、「負けて悔しいという気持ちが強くありました」と黒田は当時の心境を語る。研究チーム内では、失敗原因の分析が行われた。「我々は当時、すごいことをやっているのだという自負はありました。しかし、世の中に受け入れられるには、コストが重要な要素。最高レベルの技術を構築したものの、技術のレベルアップに傾倒しすぎて、コストを置き去りにしてしまったのです。」

時代が追いつく

研究開発に勤しむ黒田

その後、黒田は埼玉県久喜市の工場で、液晶テレビ用の別のフィルムを開発することになった。しかし5年ほど経ったころ、「また液晶コーティングの研究をやってほしい」と突然、上層部から指令が来た。今度は、3Dテレビ用の位相差フィルムの開発だった。黒田は3Dテレビの開発を新聞記事などで知り、液晶コーティングの技術が必要になると直感はしていたが、研究から長期間離れていたため、「遠いところから見ていた」という。千葉県柏市の研究所に戻ると、研究再開の喜びを噛み締める間もなく、研究に没頭した。

3Dテレビ用には、位相差フィルムにパターニングを施さなければならない。液晶は、光配向膜上に並ぶ。光配向膜は、光を当てると、その振動によって、ある方向に液晶を並べることができる。光の照射を工夫することにより、フィルム上に塗った液晶をさまざまな方向に向かせ、パターンを形成できる。これは延伸フィルムには不可能な領域だ。「液晶のこの特性は以前から分かっていましたが、使い途がなかった。我々は先を行き過ぎていたのです。でも、やっと時代が追いついてきました」と黒田。異動する前は、5年前に研究を中止したDNPの液晶コーティングの技術が錆び付いているのではないかと懸念していたが、それは杞憂に終わった。当時、日本の最先端技術であった液晶。それをフィルムに塗り、並べ、固める液晶コーティングの「最高の技術を求め」、日々切磋琢磨した成果は、5年後も最先端のままだったのだ。以前、黒田らが「失敗の一因」と指摘した「コスト度外視で最高レベルの技術を構築した」ことが、結果的には、DNPを液晶コーティングにおける世界のリーディングカンパニーに押し上げることになる。

鉛筆型の液晶の分子を精密に並べる

液晶の様々な配向状態(イメージ)

液体だが、一つひとつの分子が固体としての性質を持つ"液晶という状態"を技術者以外の人に説明するのは難しい。そこで黒田は時に、鉛筆の形をしている液晶の分子を擬人化して説明する。分子君の一人ひとりに「あなたは右を向いてください、あなたは左」と指示するのが、液晶層の下にある配向膜さん。この人が司令塔になって分子君たちのパターンを作っていく。しかし、空気に触れる液晶層の最上部では、言うことを聞かない分子君が「指示とは違う方向に向きたがる」ので、添加剤で制御することになる。そうして意図的に整列させた液晶分子君たちをフィルム上で固める。

黒田が担当した3Dテレビ用の位相差フィルムの開発は大成功だったが、3Dテレビのブームは長く続かなかった。2017年までには、すべての日本メーカーが製造を中止している。しかし黒田が、このフィルムを生産する工場に液晶コーティング技術を引き渡して次の研究テーマを模索している最中に、次世代ディスプレイとして有機ELが登場してきたのだ。ここにも位相差フィルムが必要となる。この上ないタイミングだった。

有機ELがもたらす可能性

スマートフォンなどに使われる有機ELディスプレイには、太陽光の反射を防ぎ、画像の黒などを鮮明に見せる「円偏光板」という部材が必要になる。この部材にも位相差フィルムを使用するが、薄さや軽さを追求するスマートフォンやタブレット端末用には、液晶コーティングが適している。

近年、ディスプレイのパネルは徐々に液晶から有機ELに代わってきており、DNPの位相差フィルムはすでに、世界的なブランドのスマートフォンやタブレット端末にも採用されている。

左:円偏光版あり 右:円偏光版なし(イメージ)

チームワークが欠かせない

ホワイトボードで説明をする黒田

このような研究開発にはチームワークが欠かせない。一人の研究者では、到底すべての領域をカバーできないからだ。黒田は東京理科大学の大学院で液晶を学んだが、DNPでの専門は、入社後に独学で身につけた光学だ。黒田の研究チームには、液晶、配向膜、セルローストリアセテートフィルムの専門家が所属する。「製品開発に成功することは、"みんなが勝つこと"です。みんなでモノを世に送り出したからこそ、喜びも分かち合うことができるのです」

黒田は、この"チームワーク力"を大人になる過程で身に付けたものかも知れない。出身地の静岡県では、小学生の頃からサッカーに打ち込んだ。今でいうボランチ(守備的な中盤)のポジションで、高校時代は強豪揃いの県大会でトップ16まで勝ち進んだ。今でも帰省すると、高校時代の友人とサッカーに興じる。「改めて考えると、サッカーと今の仕事は、ある意味で近いかもしれません。私がいくら得点しても、チームが負けると負けですから」

黒田剛志

直近の目標は、折り曲げたり丸めたりできる有機ELディスプレイのパネル向けに位相差フィルムを開発することだ。言うまでもなく、それには高い柔軟性と耐久性が求められる。「フォールダブル(折り曲げ可能)、ローラブル(丸めることが可能)な有機ELディスプレイは、2020年までには市場に出回るのではないでしょうか。世の中はそれに向けて動いています」と、黒田は開発に意欲を見せる。

少なくとも2020年まで、黒田は液晶を精密にコーティングする技術をさらなる高みに引き上げることに挑んでいくことになりそうだ。DNPは、液晶コーティング製品をビジネスの成長戦略の柱の一つに掲げ、研究開発に邁進している。

  • 公開日: 2017年6月13日
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