文化財の保存と公開の両立を可能にする「伝匠美」

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2007年5月、京都・大徳寺の塔頭(たっちゅう)の一つ、聚光院に次々と新しい襖が運び込まれた。日本画の最高峰、狩野永徳(1543-1590)が父・松栄とともに完成させた襖絵。運び込まれたものは、その実物の約半数、24面に代わる“複製”なのだが、専門家が見ても本物と見まごう出来だ。

大徳寺の国宝襖絵「花鳥図」狩野永徳
大徳寺塔頭聚光院(京都) 国宝襖絵「花鳥図」狩野永徳

中でも、室中(しつちゅう)に取り付けられた複製は、その勇壮な姿を床板に映し出し、国宝に指定されている原本と変わらない佇まいだ。搬入を見届けた聚光院の小野澤虎洞住職は、「ホッとしました」と、胸を撫で下ろした。元の襖絵は、害虫のほか、有害物質や紫外線の増加などの環境変化の影響で劣化が進んだため京都国立博物館に寄託され、それに代わる複製が、大日本印刷株式会社(DNP)の高精細複製「伝匠美(でんしょうび)」として作成された。長年、国宝とともに暮らし、住職としてのお勤めをしながら、国宝の保存に心を砕いてきた住職の肩の荷が下りた瞬間だった。

知恩院の襖絵を前に説明する今井
知恩院(京都) 重文襖絵「仙人図」狩野尚信

「住職の『ホッとしました』という言葉が、搬入から10年の歳月を経た今でも心に残っています」と語るのは、「伝匠美」のプロジェクトを率いるDNP・京都文化遺産グループの今井将樹だ。「国宝の保存」の重圧から解放され、しかも今までと変わらない環境でお勤めができると心から安堵している住職の気持ちが伝わってきたからだ。

慈照寺の池大雅と与謝蕪村の襖絵
慈照寺(京都) 襖絵 「琴棋書画図」池大雅および 「飲中八仙図」与謝蕪村

DNPグループは1999年12月、それまで培ってきたデジタルアーカイブと画像の再現・印刷などのノウハウを活かし、高精細複製「伝匠美」の技術開発に着手した。聚光院の襖絵の複製は、2007年2月に納入した国立博物館・応挙館所蔵の円山応挙(1733-1795)作の襖絵・壁画50面の複製に続く、「伝匠美」プロジェクトの第二弾の成果だ。
以来、国宝や重要文化材を含む約400点の襖絵、壁画、天井画、掛け軸の高精細複製「伝匠美」を手がけてきた。顧客には、慈照寺(京都市)、円覚寺(鎌倉市)、無量寺(和歌山県)、一休寺(京都府)、知恩院(京都)、義仲寺(滋賀県)といった名刹や、林原美術館(岡山市)などの美術館が名を連ねる。

金箔上の絵画の複製に挑戦

大乗寺の重文襖絵「松に孔雀図」円山応挙
大乗寺(兵庫) 重文襖絵「松に孔雀図」円山応挙

大学で機械工学を専攻した今井は、2000年にDNPに入社した。インキなどの材料を評価する材料担当として経験を積み、その経歴が評価されて2002年に「伝匠美」に携わることになった。しかし新しい職場では、今井がそれまで扱ったことがなかった和紙、絹、金箔など、文化財に使われている高級材料と格闘することになる。

大乗寺の重文襖絵「郭子儀図」円山応挙
大乗寺(兵庫) 重文襖絵「郭子儀図」円山応挙

今井の最初の課題は、「円山応挙とその一門作による重要文化財の襖絵・壁画63面の複製が可能かどうか」という、兵庫県香美町の大乗寺からの引き合いに対応することだった。長年の協力会社と共同で印刷可能な和紙は開発できたが、大乗寺の襖絵・壁画の最大の特徴である、金箔上に描かれた絵画をどのように再現するか、という課題が残った。

立体感を表現した金雲の部分
立体感を表現した金雲部分

当初は、金のインキを開発して金箔を再現しようと考えた。しかし、「インキでは金箔のきらきらした輝きを再現できない」ことが判明し、これを断念。次に目をつけたのが、江戸時代の方法で作成した金箔だった。約300年の歴史を持つ京都の老舗の協力を得ながら試行錯誤し、ついに金箔上に精緻に印刷できる技術の開発に成功した(後に特許取得)。材料の開発に着手してから、実に5年の歳月が経っていた。

引き合いから7年、2009年6月に複製を納品した際は、檀家や香美町の住民が立ち会うなか、「長期の作成期間を経て完成した複製を見るのは、非常に感慨深い」と大乗寺の長谷部真道住職にも喜んでいただいた。複製の設置によって、それまでは現物の保存のために立ち入りを制限していた各間への入室が許されることになり、美術史研究にも寄与するとともに、再現された絵画空間を気軽に鑑賞できるようになった。

「複製が入った空間で今までと同じように毎朝、お勤めができるようになり、所蔵先はときに涙を流しながら感謝してくれます。この仕事をしていて一番ありがたい瞬間です」と、今井は意気に感じている。

最先端デジタル技術で高精細複製を可能に

非接触型高精細スキャナーによる撮影風景

現在「伝匠美」のプロジェクトに携わっているのは、寺院や美術館との交渉を担当する今井のほか、撮影と画像処理・印刷を担当する株式会社DNPコミュニケーションデザインの杉峰正浩と石堂進だ。撮影担当の杉峰は、高性能デジタルカメラや非接触スキャナーを駆使して原本となる実物を撮影する。LED照明を使用し、原本を損傷する紫外線や熱を出さない方法で撮影することも重要だ。通常の襖(900mm×1800mm)をカメラで撮影する際は、4枚の写真を撮り、それを貼り合わせて1枚の画像データに仕立てるが、原本を原寸で忠実に再現するには、実に4億画素以上もの精緻なデータが必要となる。

画像は、カラー・マネジメント・システム(CMS)で処理した後、日本画の表現方法、各作者の画歴や思想、絵画空間の演出などに精通した石堂が、デジタル画像処理によって色調や作者の筆致・筆勢などを忠実に再現する。印刷には、特別に開発されたインクジェットプリンターを使用する。試作品を現場に持ち込み、所蔵家や監修者、美術史家などの立会いのもとで入念な確認をした後、本刷りを行い、襖などに表装して納品するという流れだ。

所蔵家の視線に立つ交渉

「伝匠美」の文化財複製には、①現状をありのままに複製するもの、②絵画の保存状態が最もよい部分を基準に複製するもの、③描かれた当時の状態を復元するもの、という3種類がある。その中で最も引き合いが多いのは、①の現状のまま複製するものだという。いずれにせよ、複製には案件によって大きな費用がかかることもあり、所蔵家には重い負担となる。

今井は、このような所蔵家の課題解決にも奔走する。「こんなことを言ったら怒られるかもしれませんが、所蔵家の目線でものごとを進めています。文化財を保存する収蔵庫がないということでしたら、収蔵庫を探します。また、文化財の複製費用は、デジタル化したデータを活用した商品の販売によって捻出するといった提案などもさせていただいています」

京都文化遺産講座

もちろん、将来に向けたDNPの収益向上も目指している。これまで複製や4K映像、所蔵家の講演などを通じて、生活者に文化遺産の素晴らしさを身近に感じてもらおうと、二条城などで文化遺産講座やセミナーを開催してきた。これを発展させる形で、京都の文化遺産を複製や映像で紹介するイベントを開催しながら、文化遺産関連商品を販売することも検討している。

海外展開も視野に

IT見本市 CeBITでの伝匠美の展示風景
IT見本市“CeBIT”(ドイツ)における伝匠美の重要文化財「洛中洛外図屏風」(林原美術館所蔵)の展示風景

「伝匠美」の海外進出も視野に入れている。2017年3月下旬にドイツのハノーバーで開催された欧州最大のIT見本市“CeBIT”では、林原美術館所蔵の重要文化財「洛中洛外図屏風」(左隻)の複製が展示され、好評を博した。DNPの技術の粋を集めた「伝匠美」が、海外でも認められた格好だ。

説明する今井将樹

この「伝匠美」の技術は、実は油絵の複製にも応用できる。キャンバスへの印刷や、絵の具の厚みを再現する重ね刷りの実績もある。「DNPは、ルーヴル美術館にITを駆使した美術鑑賞システムを導入した実績もありますし、油絵の高精細複製ビジネスを海外に展開するのは十分に可能ではないか」。今井は、欧米市場での事業展開の可能性を探っている。

  • 公開日 : 2017年7月14日
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